帝国の分立(ドイツ・イタリア)

神聖ローマ帝国

神聖ローマ皇帝キリスト教の擁護者として、しばしばイタリアに関心を向けて支配下に置くことを図るイタリア政策を行った。これは教皇との対立を深めるとともに、ドイツ諸侯の自立を助長していった。フリードリヒ2世(赤髯王)はたびたびイタリアに遠征するも、1176年北イタリアのロンバルディア同盟に抵抗されて敗れ、北イタリアの自治権を認めることになった。
フリードリヒ2世の死後まもなくシュタフフェン家は断絶し、1256年から一時的に皇帝不在の大空位時代を迎えた。1273年に皇帝がついたが、領邦諸侯の権力は伸張し帝国の分裂は加速した。
1356年皇帝カール4世ボヘミア王カレル1世)は金印勅書を発布し、ドイツ国王選挙を行う選帝候を七人に限定して多数決制を採用し、皇帝戴冠には教皇の承認を必要としないこととした。これは教皇の介入を防ぐものだったが、選帝候などの諸侯に徴税権や貨幣鋳造権など独立的地位を保証したため、領邦主権の基礎を法的に確定することになった。

イタリア諸邦

北イタリアでは都市共和国や公国などの諸侯や都市が分立していた。12世紀頃からローマ皇帝を支持するゲルフ教皇党)と神聖ローマ皇帝を支持するギベリン(皇帝党)で激しく争っていた。
南イタリア両シチリア王国は12世紀末から神聖ローマ皇帝が併せて統治していた。フリードリヒ2世が十字軍に協力しなかったことから教皇シチリアの回収を図り、。フランス王が両シチリア王国を一時支配した。しかし1282年シャルルの圧政に反発してパレルモで暴動が起こり、数千のフランス人が殺され、「シチリアの晩鐘」と呼ばれた。この結果シチリアアラゴン王の手に入り、ナポリも合わせたため、南イタリアスペイン王国領となった。