教皇権の衰微

教皇のバビロン捕囚

14世紀初め専ら財政上の理由から国内の聖職者への課税を図るフィリップ4世は、反対するボニファティウス8世に対抗するため、1302年三部会を召集した。1303年に教皇はローマ均近郊のアナーニで捕らえられて幽閉された。
フィリップ4世は教皇クレメンス5世のとき、教皇庁を南フランスのアヴィニョンに移転させた。1377年までの状態を「教皇のバビロン捕囚」と呼ぶ。

教会大分裂(シスマ)

1377年に教皇がローマに帰還すると、フランス王はアヴィニョンに対立教皇を擁立したため、教皇庁は分裂した。これを解決しようと1409年ピサの公会議を開いて両教皇の廃位を決定したが、かえって三人の教皇が鼎立する事態となった。
皇帝ジギスムントの提唱でコンスタンツの公会議が開催され、三教皇が廃位されて新たにマルティヌス5世が即位して統一が回復した。また異端問題も議題となり、イギリスのウィクリフボヘミアフスが異端とされ、フスは火刑に処せられた。