民主的vs独善的

アメリカの例を参考にするわけではないが、教員は独善的であるべきかという話になった。私は数少ない経験上、独善的に行うと学校運営に支障をきたす場面をみてきたが、はなから支障をきたしても良いといっている人もいた。
民主主義というのは、結局妥協の産物であり、理想を追求するべきものではない。ただ全体の理想と個人の理想は違うモノではないと思うし、全体の理想を追求したからといって、妥協は進歩であって後退ではないと思うのだが。学校の先生の中には、確かにやる気のない方もいらっしゃる。それはどんな社会でもあり得ること。それでも「みんなで」と言い続ける私は、甘いのかもしれない。というより改革を進めようという人々は、もしかしたらある意味独善的に物事を進めていくのかもしれない。敵は多いかもしれないが、考える要素を少なくできるし。そういう意味で、独善的に物事を進めていくことは合理的に思えてくる。
ただ独善的な改革が長期間にわたって実施できるかは、かなり不安な気がする。なぜなら独善的な人物が抜けたあとは、元の木阿弥となってしまうことが多いから。それよりも他人を巻き込みながら、妥協を繰り返して進めていくことも大切なのかなと。
というより両者が必要なのだろう。
そういう意味でいうと、私のような新人みたいなやつらは、独善的であるべきなのかもしれない。そういう役割を担い、ベテランの先生方が緩衝材となることで、学校全体を改善できるのかもしれない。独善的というのは、そういう意味なのかなと、話し終わってから気づいた。
やはり「おかしい」と思っても、しっかり考えてみなくてはならんな。