狂気②−グレーな人々

テレビなどを見ていると、ときおり「自分の子どものことがわからない」と話している保護者の人が流れる。特に少年犯罪のニュースに関連して流れることが多いが、結局親の管理から抜け出てしまっている現代の子どものことを把握できない現状を不安がっていることだと思う。ただ現実として「優等生」や「礼儀正しい」と言われる子どもが重大な犯罪を犯している状況を考えると、どの子が「やばそう」でどの子が「大丈夫」かがわからないのだろう。そう考えると、ある意味みんなが「やばそう」と「大丈夫」の境界線にいるといえる。
犯罪を犯した人が刑期を終えたら社会に戻ってくる。そういう人を保護?する施設が全国にあるみたいだけど、これが結構地元住民の反対を受けているというニュースを見た。確かに再犯率を調べたところ、決して低いとはいえず、不安は残るかもしれない。ただその施設を出た人がそのまま現地に残るわけではないし、なぜそこまで反対するのだろうか。最初に書いたように、今の人々は「やばそう」と「大丈夫」の境界線にいると思う。それと「やばかった」人をそこまで分ける必要があるのか疑問である。この私の考えの元は「社会は犯罪を犯した人も受け入れるもの」という社会のあり方に基づいているが、そう考えると「社会のあり方」自体を考えなくてはならないのかなと思う。
前回書いた死刑についての考えも、結局「社会のあり方」のことなのだろうと思う。犯罪(重大なものも含む)を犯した人を社会はどこまで許容できるのか、これが少しずつ変わってきているかなと思う。「菊と刀」の一部に、いくらさびても磨けばきれいになる刀と同様の心を日本人が持っていると書いてあった記憶がある。日本社会が自分たちと違う?(違うのか違わないのかも問題だが)人々をどう受け入れていくか、今後注目していこうと思う。