民主党政権誕生

政権が変わって一ヶ月。いろいろと気づいたことがあった。いまもめている補正予算の削減だけにとどまらず、政治というものがわからなくなってきた。
地方自治は民主主義の学校」という有名なフレーズがある。私はその理由を人々が政治に参加することで、人々の意見を政治に反映させ、それを実際に体験できるからだと思っている。もちろん国政と地方自治は異なっているのかもしれないが、視点は一緒だろう。つまり主権者は変化を体験したい(しなければならない?)わけだ。民主党自民党のいっていた「無駄使いの廃止」、これはどういう意味なのか。誰にとっての無駄なのか、それが明確でない。
もし無駄を決める基準が、費用対効果の観点ならば、これ以上まずいことはないだろう。なぜなら費用は日本各地どこでも大きく変わらないだろうが、効果は場所によって大きく異なるからである。首都高の増設工事と九州高速道路の建設では、間違いなく首都高増設のほうが効果が高い。つまり首都圏ほど有利で、田舎ほど不利なのだ。だから都市部ほどインフラが整備されて人々は都会に出て行き、人口集中と過疎という昔からの問題が、より深刻になっていくのだろう。
ダムや道路など、地方にとっては必要でも、他人から見たらいらないというものはたくさんある。平日の通行量がほとんどない高速道路でも、その土地に住む人々にとっては必要なものだ。「そういう理由で作ってきたから赤字だらけなんです」と人はいうかもしれない。もちろんそうだろうが、国政というものは「都市部の人々」のためのものなのか、「田舎の人々」のためのものなのか、「都市部と田舎全部」のためなのか、それによって変わってくる。「全部」であるならば、費用対効果なんかじゃなく、田舎にも田舎であることを配慮してインフラの整備が必要だろう。まあ首都圏に住む人口より田舎に住む人のほうが多いので、田舎で田舎連合的な政党を作ったら、政局も大きく変わるかもしれないが。
もし主権者が変化を体験すべきなのだとしたら、インフラを整備してくれる政党に投票することが民主主義的となるのか?そういう箱物行政がだめなのだとよくいうが、今回の民主党のように、マクロの観点からの政治しか語らず、ミクロの政治を語らない政治家を信用してよいのだろうか。極端な話、「世界を平和にする」という政治家を誰が信用できるのだろうか。信用できるのは「ともだち」くらいだろう。
ここ数年の好景気には、地方は参加できなかった。完全において行かれた感じがする。その原因が一極集中にあるのだとしたら、地方の意見は聞いてもらえなかったことになる。だからこそ、地方の人々(もちろん地方だけではなく日本全土でだけど)は政権交代を願い、民主党に期待をしたのだと思う。その民主党がマクロの政治を語っていることに、疑問を感じてしまうのだ。ならば地方をどう再生するのか、人口の一極集中をどう改善するんか、田舎モンにとってはそこがもっとも不安なところなのである。
正直、政治とはどういうものなのか、そこから考える必要があるのかもしれない。