過去の日記1

十年以上前に書いていた日記データを発見。たった数日だけど、ココに書いておこう。

 突如、日記を書こうと思った。生まれてこの方日記を書いたことがないので、何を書いていいかわからないが。
「戦争」という事態が起こり続けている。二十世紀は戦争の世紀だった。「二十一世紀は平和でありたい」と思う多くの人間の意志に反して、戦争は発生している。「戦争」と呼ぶべきものか、という問いが発生するかのような現状ではあるが。第二次世界大戦後、冷戦の時は東西の対立の構図が戦争に描き出されていた。まさに領土合戦というべき事態で、局地的な戦争しか起こらず、諸葛亮孔明の「天下三分の計」のように均衡を保っていた。しかし、冷戦後の世界は均衡と言うべき多国間協調が存在しない事態になっている。冷戦後の戦争は戦争と呼ぶべきものではなくなってきているのかもしれない。各国で発生しているものは戦争というより「紛争」と表現されている。アメリカが連合軍を率いて行った戦争は戦争と言うより、「暴力」と表現したほうがあっているだろう。なぜならアメリカは攻撃されていないからだ。たんなる一方的な暴力である。
歴史を学んでいるものにとっては、感情論になることは避けなくてはならない。国家間に倫理観は存在せず、もちろん正義も存在しない。あるものは利益か不利益かだけである。日本はアメリカの戦争に賛成をして、アメリカの強力な信頼を勝ち得ることができた。国連vsアメリカの戦いはアメリカの勝利で終わり、イラク攻撃は短期間で終わるという日本の読みはあたり、日本は正しい選択をしたのだ。ドイツやフランスは国内に盤石の基盤を作ることに成功したが、国際的には(というよりアメリカ的には)信頼をなくした。
世界が右傾化してきている状況において、もれなく右傾化したネオコン新保守主義)と呼ばれるブッシュ政権。単独孤立外交と呼ばれている政策を打ち出してきた米国ブッシュ政権、それに乗った日本と英国、反対した独国や仏国、世界的な構図がわかりやすくできつつある。しかしそれらの構図はただ「利益」のみで成り立っている。そこには感情の入る隙間は一切ない。もちろん独国や仏国もである。
反戦運動を行っている人々がいた。本気で戦争を止めたいのならば、アメリカ人で反戦運動していた人の十分の一でもイラクへ行けば、たぶん戦争は止まっただろう。まあそこまで行う人間はそうたくさんいない。人の命は平等ではないのだ。結局のところイラク人が何人死のうと、自分の子どもの命を差し出す者はいない。自分の命を差し出すものもいない。
つまり誰にも戦争は止められないのである。
しかしジョン・レノンが語りかけてくる。「Imagine all the people, Living life in peace」と。思考回路が止まってしまう。動けなくなる。ただ鳥肌が立ち、目頭が熱くなる。
「戦争を止めるのは無理なのだ」と理屈ではわかっている。国連も何の役にも立たなかった。すべて想像できたことだと。「and the world will be as one」だって理想にすぎないと、現実的に起こりえないと。
んじゃなぜ俺は教師を目指しているのか。教師になって何を子どもたちに伝えたいのか。全てが矛盾している。戦争を止めることは不可能である。しかし、止めようと努力しているのはなぜだ?ボランティアは偽善であるとか、人のために何かをしたいという感情は偽善だとか、いろいろなことをいってきた。自己犠牲的感情は俺には偽善としか思えなかった。全ては自分のため、自分がよりよく生きるためにがんばってきた。
ではなぜ目頭が熱くなるのか、鳥肌が立つのか。こんな日記を書き出すのか。自分でも全くわからない。ただ一つだけわかっているのは、自分で判断しなくてはならないということだけである。アメリカは正義だったのか、イラクは悪だったのか、それは絶対にわからないことである。自分がどう捕らえ、どう行動するか、ただそれだけだろう。
もし神がこの世にいたとしたら、自らを正義とし、戦争をしたブッシュはどう映るのだろうか。「また人間が…」と思うのか、「人間は必要ない」と思うのか。たぶんそうではないだろう。きっと「予想どおりだ」という一言で終わってしまう。なぜならあんな大統領の信じる神なんて、倫理観をもっているわけがない。

青臭い。なんともくそ恥ずかしい。
けど、それを肴にするのも一興。