過去の日記3

だんだん笑えなくなるなぁ。

「美」について書いてみようと思う。昔プラトンという哲学者がイデア論というものを確立した。それは「何であるか」という問いを究極的に突き詰めて残るものが「イデア」ということを述べている。つまり「勇気」とは「何であるか」ということであり、勇気という事象全てに内包しているのが勇気のイデアということである。
「美」のイデアは一体なんなのか。ちょろっと考えてみた。美しいものの代表格として考えられるのは「美術品」であろう。今回はその中の絵画をとって考えてみた。絵画というものの美しさというのは、一体「何であるか」ということである。普通に考えると個人個人が美しいと思う物であろう。しかし現状は違っている。いくら美しかろうと、本物のゲルニカと100円のコピーでは、百人が百人本物が美しいと答える。絵画というものはなぜか本物でなければいけない。コピーではいけないのだ。
ベートーベン作曲交響曲第九番合唱付。私の好きな曲の一つである。これはベートーベンが最後につくった交響曲で、耳の聞こえなくなった本人が指揮をとったこともある。それではそのベートーベンが指揮した音源が残っているとしたら、いくらの値がつくのだろう。というより、どうなの?ってことである。当時の音源だとしたら、かなり音質は悪いだろう。録音技術も心許なく、音響設備もボロボロであると思われるからだ。これと小澤セイジが指揮をした現代のCDはどちらが美しいのだろうか。これは百人が百人現代と答えるだろう。
音楽(特にクラシック)はいってしまえば、すべてコピーである。いくら解釈が存在しようと、表現の仕方が違かろうと、コピーである。しかし絵画のコピーは認められない。贋作となって扱われる。コピー機でコピーしたのは紙切れ同然である。となると、絵画の美しさというものは、一体どこにあるのか。絵全体ではなく、筆使いになるのか?ふざけた話である。そんなわけはない。全てで「美しい」と思えるのである。ということは、本物のゲルニカとコピーのゲルニカは同じ美しさではないのか?本物ならではの崇高さがあるとかわけわかんないこと言われそうだが、ならば目をつぶってその崇高さを感じて見ろといいたい。それで本物を当てられたら、私も負けを認めよう。まあ当たるわけがないが。
絵画の値段というのははんぱない。すごい値段を付けられている。その値段というのは、美しさからではない。ただ希少価値であろう。つまり牛乳瓶のフタとなんら変わりないということである。小学校で集めているやつがいたが、それとなんら変わりない。牛乳瓶のフタに何億という金をだすことがあるのかはわからんが。
絵画への人気というのは計り知れない。しかし、本人が美しいと思ったら、それでいいのではないか?たとえそれが偽物であろうと、なんであろうと。本当に美しいと思ったら、いくらであろうとかまわないはずである。
社会が悪いのか、何が悪いのか。ギャラリー・フェイクとはいい題名である。偽物を扱うギャラリー。本物を美として飾る美術館は、きっと「美」自体がフェイク(偽物)なのだろう。