100分de名著「論語」

『論語』 2011年5月 孔子は「白熱教室」の先生だ! (100分 de 名著)

『論語』 2011年5月 孔子は「白熱教室」の先生だ! (100分 de 名著)

 なんだか古くさいイメージの「論語」。儒教のイメージってそういうとこある。これがどう変わるのか、変わらないのかと思い、読んでみた。
 孔子の教えは現世的で俗っぽい、けど「目的」と「手段」、「結果」と「過程」を混同するなと教えている。
《富と貴きとは、是れ人の欲する所なり。其の道を以てこれを得ざれば、処らざるなり。貧しきと賤しきとは、是れ人の悪む所なり。其の道を以てこれを得ざれば、去らざるなり。君子、仁を去りて悪くにか名を成さん。》
 結果よりも過程、なんか「教育」って感じがするねぇ。
 また孔子の教えで有名なのは「恕」である。意味は”思いやる”。しかも「自分を思いやる」ことが大切だそうです。
子路、君子を問う。子の曰わく、己れを脩めて以て人を安んず。曰わく、斯くの如きのみか。曰わく、己れを脩めて以て百性を安んず。己れを脩めて以て百姓を安んずるは、堯・舜も其れ猶お諸れを病めり》
 まず自分が充実していれば、周囲との関係もよくなり、人間社会全体も良くなる。そういう意味で、自己愛が人間形成のキーとなるわけだ。
 孔子が重視したのは教育。しかも物事を正しく考えられるように、正しい判断ができるように教育すること。その1つが「温故知新」《故きを温めて新しきを知る、以て師と為るべし》。まず昔から考えられてきたことを踏まえて考える。そして、その上に新たな自分流の解釈を付け加えてみる。この流れが大事だと。
 他には「中庸」《過ぎたるは猶お及ばざるがごとし》。「中庸」とはバランス感覚である。特に知性と感性のバランス。この2つを共存させてバランスよく保つことが大切だと《汎く衆を愛して仁に親しみ、行ないて余力あれば、則ち以て文を学ぶ》。
 だんだん飽きてきたなぁ。けど最後のほうに書いてあった内容はよかった。

論語』の中で、孔子はさかんに「われ」という言葉を使っていますが、彼の言う「われ」というのは、西洋哲学でいうところの「自我」とは、ぜんぜん違うものです。あのような分析的で抽象的なものでなく、もう、”丸ごと私”。要するに全人格なんです。〜
 西洋の自我というのは、万人に共通する部分を抽出して抽象化した概念で、今ここにいる個別具体的な私はどうすればいいのか、という問いには答えてはくれません。その点、孔子の「われ」は違います。長所も短所も、自我も超自我も、意識も無意識も、すべて含めた丸ごとの「私」であり、「あなた」なのです。

 こういうのって大切だよね。学生時代、心理学の先生が、「心理学というのは統計です。統計的に普通の人を想定しています。けどそんな人はいません」って言っていたけど、意味としては上記のような話だったんだろうな。心理学ってなんとなく人間の心理を突いているように見えるけど、実際はみんなどこかに当てはまるんだよね。けど、みんな同じわけではない。「人間」という超個別的で個性的な動物を、一般的に見るために、心理学ができたわけだ。
 けど、こう書くと、すごく問題な気がする。
 そういやこれも読んだな。俺は高校生じゃないから感動しなかったのかもしれないけど、もう一回時間があったら読んでみるか。

高校生が感動した「論語」 (祥伝社新書)

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