古代文明(メソポタミア・エジプト)

メソポタミア

ティグリス川とユーフラテス川との間の地域。「両河の間の国」という意味。「肥沃な三日月地帯」とも呼ばれる。前6500年頃にジャルモ・イェリコといった集落が発達し、シュメール人が前3000年頃に都市国家ウル・ウルク・ラガシュ)を建設した。王は神意を受けて行動し、インドとも交易関係を築いていた。
前3000年頃、セム語系のアッカド人がシュメール文化を吸収して文明化した。サルゴンがシュメールも征服し、シュメール=アッカド朝を開いた。四代のナラーム=シンは「四方世界の王」という称号を用いた。その後シュメール人の都市が復興し、ウル第三王朝期には世界最古の法典「ウル=ナンム法典」が制定された。
前2000年頃、ウル第三王朝はセム語系のアムル人によって滅亡し、アムル人はシュメール・アッカド文明を吸収してバビロニア王国を興した。その六代ハンムラビ王は治水灌漑事業や首都バビロンの造営の他に、ハンムラビ法典を制定し、中央集権的な組織を確立した。しかし前16世紀に小アジアヒッタイト人の侵入を受けて衰退し、やがてインド=ヨッロッパ語系のカッシート人に支配された(カッシートは地方分権的で王権が弱かった)。

エジプト

エジプトは地理的に外敵の侵入がなく、治水と灌漑の必要から前3000年には統一国家が成立した。上エジプトの王メネスが下エジプトも併合して王朝を作り、首都をメンフィスにおいた。前2700〜前2200までを古王国と呼び、ピラミッドも数多く造られた。エジプトの王は太陽神ラーの子であり、理論的にはエジプト全土の所有者で絶大な権力を持った。各地を州(ノモス)にわけ、知事を任命して統治した。
テーベが、その後の小国割拠状態を統一し、中王国が始まった。しかし再び内乱がおき、シリア方面からヒクソスセム系)が馬と戦車で侵入し、エジプトを支配した。
豪族のアフモスがヒクソスを追い返して新王国を開いた。この王朝は馬と戦車を用いて軍国主義的に統治し、中央集権化を進めた。王権の宗教的な裏付けの必要から、テーベの市神アメンの神殿や神官が富強となった。そのためアメンホテプ4世はアメン崇拝からアトン崇拝に変え、自ら名前もイクナートンに改名し、首都もテル=エル=アマルナに遷都した。そのため伝統にとらわれない「アマルナ美術」が発展した。
その後エジプトは衰退し、アッシリア支配下に入る。アッシリアの崩壊後独立するが、結局アケメネス朝ペルシアに征服されてしまう。