ギリシア史の展開(スパルタ・アテネ)

スパルタ

ドーリアが建設したスパルタは、ギリシアでは例外的に大きな領土を有していた。ドーリア人の支配体制を維持するため、独自の軍国主義的な政治・軍事体制がリュクルゴスによって形成された。
身分構成は ①完全な市民権を有するスパルティアタイ−労働しない軍人 ②従軍義務を持つペリオイコイ−職業の自由はある半自由民 ③農業奴隷のヘロット−分配地(クレーロス)で耕作 の三つの階層で構成されていた。政治では最後まで王政が存続しており、二つの王家から1名ずつ王を出していた。しかし王権は弱く、軍隊の最高指揮官と最高の神官としての性格を持っていた。重装歩兵の戦闘方法を実行し、ギリシア最強のポリスと見なされていた。しかし対外拡大せず、ペロポネソス同盟を結び程度で閉鎖的であった。経済は自給自足経済をとり、経済交流もなかった。

アテネ

王政の崩壊後、貴族制へと移行した。政治上の重要な役人はアルコンと呼ばれ、スパルタの長老会にあたるものとしてアレオパゴス会議があった。前7世紀に入ると植民活動の結果商工業が発達したため、貴族はますます裕福になったり、没落したりと、利害が複雑になって一致して支配できなくなった。また貨幣経済段階に入ったため農民は多くの負債に悩まされた。
前621年ドラコンが従来の慣習法を成分化して公布した。これにより法律が貴族だけのものではなくなった。その後アルコンに選ばれたソロンは、貴族と平民の調停者となって改革を行った。①身体を抵当とした金銭貸借の禁止 ②全市民を四つの階級に区別し財産政治を行う ③評議会の設置 を行った。
結局抗争は収まらず、ペイシストラトスが民衆の勢力を背景に僭主政治を行った。彼は農民たちを自分の生業に専念するよう導き、農業や手工業や貿易が飛躍的に発展した。しかし人気を失い、僭主制は崩壊した。前508年クレイステネスが改革を断行した。①貴族の基盤となっている部族を解体して新しい10部族制を作った ②500人評議会を設置した ③僭主となる危険な人物を国外退去できる陶片追放オストラシズム である。これによって民主制が確立し市民の間に自由や平等への熱意が強まっていった。