明清時代の文化1

明代の思想と学問

明代はモンゴル族の影響が抜けきれず、実用と実践を旨とした学問が発達した。清朝もこれにならい、中国文化を一層発達させた。永楽帝朱子学の学説を集大成して、「四書大全」「五経大全」「性理大全」を編集させて国定注釈書とした。また文献を分類・編集した「永楽大全」という叢書を作らせた。こうした国家的文化事業の推進によって、正史などの刊行も盛んとなり、啓蒙史書も流行した。反面、科挙の典拠とされて、思想・学問の固定化を促した
これを打ち破ったのが王陽明陽明学である。彼は陸九淵の学説を発展させて、致良知(心を主として良知を重んじる)、知行合一(知識と行動の合一)を説いた。この陽明学は共鳴者を生じ、男女平等を唱える李贄李卓吾)などを生んだ。その後主観主義的傾向への反動として、実学が興った。李時珍の「本草綱目」、徐光啓の「農政全書」、宋応星の「天工開物」などである。また儒学内部でも黄宗義顧炎武などの学者がでて、確実な証拠を求めて実証的な研究を行おうとする考証学のもとを開いた。また宣教師マテオリッチに学んだ徐光啓は中国暦の根本的改革を図り、アダム=シャールの強力を得て「崇禎暦書」を作成した。

清朝文化政策と学問の傾向

清朝歴代皇帝は学者・文人を優遇して、国家的編纂事業を行わせた。康煕帝の「康煕字典」、雍正帝の「古今図書集成」、乾隆帝の「四庫全書」などが代表的なものである。しかし厳しい思想・学問を統制したため、政治論議を必要としない古学的研究が進み、考証学が発達した。乾隆・嘉慶時代には戴震・銭大繒・段玉裁らの学者がでて全盛期を迎えた。中国の学問は政治性を失っていき、空疎なものとなっていたので、19世紀に入ると実践を重んじる公羊学派が興り、康有為らの理論的根拠となった。