オスマン帝国の衰退と文化

オスマン帝国の衰退

レイマン1世の死後、大宰相ソコル=メフメット=パシャがでてしばらくの間盛時を維持した。しかし1571年のレパントの海戦でスペインに敗れて地中海の覇権を失った。またこのころからイェニチェリの堕落や封建領主の離反が進み、絶対主義の確立したヨーロッパの圧迫を受けるようになった。
1683年第2次ウィーン包囲の失敗から守勢に立たされたオスマン帝国は、ロシア・オーストリアにも敗れ、1699年カルロヴィッツ条約オーストリアに対しトランシルヴァニアスロヴェニア・クロアティアの一部を割譲し、ハンガリーの自由化を認めさせられた。こうしてオスマン帝国はヨーロッパに分割されていった。
1498年ヴァスコダ=ガマがインド航路を発見した後の海上交通の発達によって、東洋の物資は海から直接ヨーロッパに輸入された。これにより陸上貿易によって栄えていた東地中海沿岸の諸都市は衰退し、中継貿易によって栄えていたオスマン帝国も衰退していった。

社会と文化

オスマン帝国は独特の軍事封建制ティマール制)を取って地方分権的であったが、階層的な封建社会ではなく、シパーヒー(受封者)が直接スルタンと結びついている中央集権体制を維持した。またキリスト教徒やユダヤ教徒に対しては、徴税に強力する形で自治を認めるミレット制を行うなど、異教徒にたいして寛容な政策をとった。
文化については、歴代スルタンが保護したため、イラン系文化やビザンツ文化が重んじられた。特にスレイマン1世のときにミマール=シナンによって建てられたレイマン=モスクは帝国の黄金時代を表している。