大移動の開始

移動と建国

4世紀後半に10程度に統合されたゲルマン人の部族国家は、人口増加や気候の変化による穀物不足が深刻化していた。375年中央アジアフン族(一説では匈奴)が西進し、まず東ゴート族を、ついで西ゴート族を圧迫した。そのため西ゴート族は保護を求めてドナウ川を渡り、ローマ領内に侵入した。395年にローマ帝国東西に分裂し、ローマ辺境の守備隊が撤収したため、ヴァンダル・ブルグント・フランクなどの諸族も西ローマ領ガリアに侵入して、民族移動が始まった。476年にはゲルマン傭兵の待遇問題が起こり、オドアケル西ローマ皇帝アウグストゥルスを廃位したため、西ローマ帝国は滅亡した。
西ゴート族は378年に西ローマ皇帝ヴァレンスアドリアノープルの戦いで敗死させ、5世紀半ばアラリックに率いられて一時ローマを占領し、その後イベリア半島北部(トロサ)に西ゴート王国を建てた。507年クローヴィスに敗れたためトレドに移動したが、711年イスラム帝国ウマイヤ朝に滅ぼされた。
東ゴート族は5世紀半ばフン帝国の崩壊によって独立し、テオドリックに率いられて西ローマ帝国を滅ぼしたオドアケルを倒してラヴェンナ地方に東ゴート王国を建てた。しかしビザンツ皇帝ユスティニアヌスの討伐を受けて滅亡した。
ヴァンダル族は西ゴートに追われてアフリカに入り、カルタゴヴァンダル王国を建てた。しかしビザンツ皇帝ユスティニアヌスに滅ぼされた。
ロンバルド族は6世紀頃東ゴート王国滅亡後の北イタリアに進出したが、フランク王国に滅ぼされた。
アングロ・サクソン・ジュートなどの諸族は、5世紀半ばにブリタニア島に侵入し、先住ケルト民族を征服してアングロ=サクソン七王国を建てた。
民族移動のきっかけを作ったフン族ドナウ川北方にいたが、451年カタラウヌムの戦いで西ローマ・ゲルマン連合軍にアッティラ率いるフン族が敗れ、アッティラの死とともに崩壊していった。

大移動の性格

略奪や暴政もあったが、ゲルマン諸族とローマ地主との間では、平和的な分割が行われた。ゲルマン部族の移動は、家族・奴隷を伴い家畜・財産を携えての移住であり、戦士団だけの移動は少なかった。
移動の口火を切った東ゲルマン諸族はローマ帝国内に侵入したあと、帝国の奥深くまで侵入してローマ文化の中に埋没してしまい、ゲルマン的特質を失って自壊を早めた。その理由として、①旧ローマ的体制・文化が強い同化吸収力を持っていたこと、②支配者であるゲルマン人数の上で著しく劣勢であったこと、③ゲルマン部族はアリウス派キリスト教を受け入れていたため、アタナシウス派を信仰するローマ市民との間に融和を欠いたことなどが考えられる。
それに対して西ゲルマン諸族は比較的短い移動距離で、特にフランク族はいち早くアタナシウス派に改宗するなどして有利な基盤を作った。