王国の解体と中世国家の誕生
カロリング朝の崩壊
南からイスラム教徒の圧迫、北からノルマン人の侵入という状況で、中央権力の無力さが明らかとなり、王権そのものが分裂した。カールの子ルイ(敬虔王)の死後、843年のヴェルダン条約で三国に三分され、ロタール1世がイタリ及び中部フランクを、ルートヴィヒが東部フランク、シャルル2世(禿頭王)が西部フランクを領有した。ロタールの死後、870年のメルセン条約でルイとシャルルが中部フランクを分割し、ドイツ・イタリア・フランスの母胎ができあがった。言語もテュートン語(ドイツ語)、ロマンス語(オック語とオイル語−フランス語)に分かれた。
神聖ローマ帝国
東フランクでは、古来の部族を権力の支えとする諸侯の勢力が復活した。諸侯領の分立を前提として選挙王政が行われ、ハインリヒ1世がザクセン朝を開いた。
936年に王位についたオットー1世は、部族候や伯など世俗の権力者を抑え、マジャール人やスラブ人を討って領土を拡大した。マジャール人に対する備えのオストマルク(東辺境領)がのちのオーストリア、スラブ人に対する備えのノルトマルク(西辺境領)がプロイセン(ブランデンブルク辺境領)の起源となった。
教皇ヨハネス12世の求めに応じて出兵したオットー1世は、962年にローマ皇帝の冠を授かり、ここに神聖ローマ帝国が成立した。神聖ローマ皇帝は教皇と並んで西ヨーロッパの二大権威となり、権力争いが引き起こされた。ドイツ国内では、司教に対する統制を強めて帝国教会制をおし進めた。
歴代の神聖ローマ皇帝は、超国家的な世界支配の理念に惑わされてイタリア経営に熱中し、ドイツ国内の諸侯分立に拍車をかけた。またイタリア政策に諸侯の同意を得るため政治的譲歩や特権の授与を余儀なくされた。